ゆうとのこと(小学校チャレンジ!篇)

難聴児の息子が地域の小学校に入学しました!親の視点からさまざまな気付きを綴ります。

息子のアイデンティティーと親の責任について

もしも時計の針を5年前に戻せるなら・・・

息子が産まれてすぐに重度の難聴だとわかったとき、目の前が真っ暗になって(本当に色彩が抜けて世界がモノクロになりました)奈落の底に突き落とされて、もう地上には這い上がれないような気持ちになりました。今まで病気になっても薬を飲んだら治った。努力したら報われた。なんとかなってきた人生でした。それが、なんともならないことがあると、どうしようもない恐怖を感じたのは、父を亡くして以来のことでした。父は心筋梗塞で、私がまだ学生の時に突然亡くなりました。「おやすみ」が最後に父と交わした最後の言葉になりました。あんなにあっさり死んでしまうなんて。一番身近だった人が急に手の届かないところへ行ってしまった。悲しみよりも恐怖の方が大きかったです。

産まれたばかりの息子。まだ上手におっぱいも飲ませてあげられないのに、まだ出会って4日しか経っていないのに、突然手の届かないところへ行ってしまった。自分ではどうすることもできない恐怖。いまでも当時のことは昨日のことのように思い出せます。

医師にかけられた言葉は「話すことは諦めた方がいい」「手話を覚えなさい」「聾学校へ紹介状を書くから」。あたりまえだけど「大丈夫」とは言ってくれなかった。奇跡を信じたけど、そんなものはなかった。

音に反応しない息子。これから先どうやって育てたらいいのか途方に暮れて、涸れるほど泣きました(でも涙は涸れないこともこのとき知った)。

体の水分がほどんど抜けてカラカラになっている私に、主人が「東京へ行こう」と言ってくれた、手をひっぱって連れて行ってくれたことが、その後の私たちの人生を変えました。

東京で出会った医師に「大丈夫、この子は話せるようになりますよ」と言われて、何を根拠に・・・と思ったけれど、はじめて「大丈夫」と言われて本当に救われたような気になりました。

私たち夫婦は当然のように息子が「話せるようになって欲しい」と思いました。

自分たちが生きている「世界」で共に生きたいと願ったからですが、それ以外の選択肢を想像する余裕がなかったのも事実です。

私たちは迷うことなく人工内耳を選択しました。あれから5年が経ち、息子はおしゃべりな小学1年生になりました。

学校では先生の話が聞こえない時もあり、苦労はしているようです。これからもっと苦労するだろうと思います。難聴の子どもが聞こえる世界で生きるというのは、そういうことなんだと改めて感じる日々です。

口話で育ったために、息子が得たものは少なくありません。私たちは自分たちの世界が一番素晴らしいと思っているから、そう感じるのかもしれませんが、それは「聞こえる」私たちのエゴじゃないかと、最近思います。

息子にはふたつの人生がありました。「聞こえる世界で生きる人生」と「ろう者として生きる人生」です。一人の人間の人生を他者である親が選択する、という非常に重い決断を幼い難聴児を持つ親には課せられます。幼子にはそれを選択できないからです。

人工内耳の適応基準が1歳にまで下がってきた現在、親はまだ子どもの難聴がわかって間もない失意の中にある時に、それを選択しないといけないのです。どちらが子どもにとっていいのか、など冷静に判断できるでしょうか?聞こえる世界で生きてきた親なら、自分たちのいる世界で生きてほしいと願ってしまうことを誰が責められるのでしょうか?

ただ、息子にはもうひとつの人生もあったことは事実です。私たちは息子にとって困難な人生を選んでしまったと正直思います。私たちの住む世界は、まだ息子にとっては優しくはないからです。人生にIfがあるとしたら・・・今の私はどちらを選択しているかな、と考えます。

息子は「人工内耳をして良かった」と言ってくれます。「僕、聞こえて良かった。友達もいっぱいできて、毎日楽しいから」と。「お母さん、お父さん、ありがとう」と言ってくれる息子に対して、私には責任があると強く感じます。